世界卓球2007 日本代表選手応援ブログ

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世界卓球 愛ちゃん
福原 愛(ふくはら あい、1988年11月1日 - )は、日本の卓球選手。宮城県仙台市生まれ。グランプリ所属。「愛ちゃん」の愛称で幼い頃から親しまれている。幼少の頃から「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」として有名で、現在では アテネ五輪や世界選手権に日本代表選手として出場したりと名実ともに「日本のエース」に成長した。また日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度適用選手でもある。中国語が堪能で、中国でもたいへん人気がある。2006年8月までのITTF世界ランキング最高位は14位で、2005年4月には日本人女子1位となった。2005年10月現在の世界ランクは16位。
1988年11月1日に仙台で生まれた福原は3歳9ヶ月から卓球の英才教育を受け、4歳でテレビに初登場した。自分よりも大きな選手を次々と倒し、時には無邪気な笑顔で、時には悔しさで号涙する姿はお茶の間の心を捉え、一気に国民的アイドルとなった。福原が泣くと視聴率が上昇する為、テレビ局は泣きシーンばかりを何度も再放送し、「泣き虫愛ちゃん」と呼ばれるようになった。名前の「愛」は母方の祖母、愛子から一字もらっており、「みんなに愛されるような子に」という願いをこめて父が命名した。 卓球を始めたきっかけは、10歳離れた兄が中学から卓球をはじめ、経験者の母は息子の卓球練習にかかりっきりになり、自分もかまって欲しくてやりはじめた事だった。5歳10ヶ月で全日本選手権バンビの部(小2以下)史上最年少で優勝、以降数ある大会で優勝し、史上最年少記録をいくつも作った。同世代には敵無しとなり、大きな選手や男性と試合をすることも多く、その際にも負けると泣いて悔しがる負けん気を持っていた。

小4でプロ宣言し、ミキハウスと専属契約を結び、仙台より大阪へ引っ越した。 小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たす。中1の4月に公立中学に入学したが、卓球面での環境を考え青森に引越し、青森山田中学校に転入した。以降、中学の3年間は世界各地のITTFツアーに数多く出場。安定した成績を見せ、世界ランキングを上げていった。この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになっていった。選考会などを経て14歳の若さで世界卓球選手権に抜擢され出場したが日本勢の中で一人躍進、ベスト8まで進む快挙を成し遂げた。このことが、アテネ五輪出場につながる。

福原の人気を再燃化させたのが2004年アテネ五輪だった。日本より一人選ばれたドーハでの大陸予選を勝ち抜け、その前年に「オリンピックは夢の夢の夢の夢」と言っていた福原が日本女子3枠目の座を勝ち取った(他は梅村、藤沼。なお、小西と組んで挑んだダブルスは予選で敗退)。テレビでアテネに向け調整する福原が大きく取り上げられるようになり、長嶋茂雄の代役として、聖火リレーの最終走者も務めた。アテネ五輪では1回戦をシード通過、2回戦をミャオミャオに辛勝、3回戦はガオ・ジュン(高軍)に圧勝、4回戦は金暻娥に負けた。福原の試合はゴールデンタイムで放送され、3回戦はメダルのかかってない試合にもかかわらず平均20.1%、最高視聴率31.9%を獲得。これはアテネ五輪放送の中でトップクラスに高い数字だった。その後も福原愛への関心の高さは続き、学校に登校したり髪を切るだけでニュースとなった。 2005年3月にはミキハウスとの契約をが満了し、翌月グランプリとの契約を結ぶ。直後に、中国で最もレベルの高い超級(スーパー)リーグに参加、遼寧本鋼チームと契約した。この超級リーグは週1,2回の日程、広大な中国大陸を試合毎に行き来する移動に多忙を極めたが、福原は全試合に出場した。だが、チームに世界2位の王楠、4位の郭躍がいた為、シングルの出番が少なくダブルスが多かった。期間中は中国のインタビュー番組や、卓球の雑誌にも登場した。8月の最終戦は岡山県で、日本で初の超級の試合を行った。2005年2月にはアジアカップで強豪の郭炎を破り2位に、同年11月の女子ワールドカップ(各大陸の世界ランキング上位者と推薦選手の16人でのITTF大会でまだ新しい大会)に推薦が決まり出場したが、リ・ジャウエイやティエ・ヤナといった強豪相手に快進撃を続け見事3位銅メダルを獲得し、世界ランクを一気に16位まであげた。 2006年5月には世界選手権団体でエース級の活躍を見せ見事銅メダル(2004年ドーハ団体に続き2度目)。放送したテレビ東京の視聴率も最高12%を出し好調だった2006年度はチームを広東佐川急便に変えて超級リーグに参加(なお、チームの2006年度オーナー権を福原サイド(千秀企画)が買っている)。

1988年11月、宮城県仙台市にて誕生
1992年8月、卓球の練習をはじめる。
1995年3月、宮城県・仙台白百合学園幼稚園卒園
1995年4月、宮城県・仙台市立吉成小学校入学
1998年7月、大阪府八尾市に転居。(9歳)
大阪府・八尾市立中高安小学校に転入
ミキハウスJSC(ジュニアスポーツクラブ)に所属。
1999年1月、大阪府・八尾市立大正北小学校転入
1999年3月、日本卓球協会の理事会で承認され、レジスタードプロに登録(3月20日付け、10歳)
2000年6月、大阪府・八尾市立東山本小学校転入
2001年3月、大阪府・八尾市立東山本小学校卒業
2001年4月、大阪府・八尾市立東中学校入学
2001年5月、青森県・青森山田中学校転入
2004年3月、青森県・青森山田中学校卒業
2004年4月、青森県・青森山田高等学校入学
2005年4月、グランプリと契約。中国超級リーグに参加、遼寧省チームに入団。(4月に契約、6月〜12月まで中断をはさみ試合)
2006年3月、中国超級リーグ、広東佐川急便チームに移籍。3月に契約、6月〜8月まで試合)
2006年8月、早稲田大学のスポーツ科学部トップアスリート入学試験に出願
2006年9月13日、早稲田大学スポーツ科学部に合格。
2007年3月1日、青森山田高等学校卒業

中国での福原の関心は高く、日本には無いファンサイトも複数存在する。福原の写真が入ったシャツを着て観戦する熱心なファングループもいる。Yahoo!の中国サイトが2005年4月に発表した世界卓球8大美女に福原愛が選ばれた(他には張怡寧、王楠、白楊、リ・ジャウエイなど。日本人では他に柏木有希が選ばれている)。
2005年「面対面」という中国の人気インタビュー番組に出演。その中でキャスター王志から「家族は本業をやめられたそうですが、あなたが一家を背負うことにプレッシャーは無いですか?」という質問がされ、福原は戸惑って「そんな難しいこと、聞かないでください」と涙をこぼした。近年、福原がテレビの前で泣くことはめったに無かったこともあり、この出来事は日本でも大きな話題となった。だが結果的にこの事は、日中の福原ファンを増やすことに貢献した。

ちなみにその後、王志は日本のメディアから質問を受け、「彼女が泣くとは思わなかった。私の配慮が足りなかったのですね。しかし視聴者が一番聞きたいと思っていることを聞くのが私の仕事です。多くの中国人が福原に興味を持っていました。だからゲストに呼んだのです。」と答えている。福原自身は、涙の理由について「初めて受けるタイプのインタビューだったので、どう答えたらいいか戸惑ってしまい、ちょうどその頃中国リーグの疲れもあって(精神的に不安定だったため)泣いてしまった。」と答え、また中国のネット掲示板で「王志が子供(福原)をいじめている」と、一部非難があったことについて、「私はいじめられたとは思っていない。それは間違いです。しかし、今後そういうインタビューも増えてくると思うので、もっとうまく対応できるようにしたい。」と語った。

当時の小泉純一郎首相の靖国問題などで、中国では反日感情が高まり、日本への政治にも冷たい態度を示すことが多かったが、そんな中でも福原のニュースを中国英字紙チャイナ・デーリーは2006年3月16日付紙面の1面トップで、卓球の中国スーパーリーグの広東省チームに移籍した日本人選手、福原愛のカラー写真を掲載した。 中国は、小泉首相に非難の的を絞る一方、一般の日本国民について日中関係冷却化の責任はないとして友好関係を強調する姿勢を見せていた。同紙が福原を取り上げたのも、こうした対日配慮の一環とみられる。 写真は赤いユニホーム姿の福原が地元の子供たちに囲まれ笑顔を見せているもので、福原を「著名な日本の卓球選手」と好意的に紹介している。 福原は日本の中国大使館を何度か表敬訪問しており、「中日友好」の色紙を持って王毅駐日大使と撮影に応じた。他にも日中友好関連のイベントによく招かれている。

また、福原は中国語が堪能である。これは幼い頃より中国人コーチと話す機会があったこと、また頻繁に中国で合宿を行っていたことから、自然と身についたらしい。2006年1月にはNHK教育の中国語会話にも出演した。ただし、読み書きはまだなかなかできないらしい。福原愛の中国でのニックネームは「瓷娃娃(ツーワーワー)」(磁器のお人形という意味、肌がきれいな事から)。掲示板ではよく小愛と呼ばれている。

2006年10月に中国のウルムチで行われた女子ワールドカップではチケットにも大きく写真が載せられた。

幼少の頃は母親の影響で背の中ほどまで髪を伸ばし、試合中はだんごのように留めていたが、小学3年辺りから短めになり後ろ髪をに結び、前髪を垂らさずにピンで止めるというスタイルになり、それが長く続いた。中2ぐらいからは定期的に髪にストレートをかけるようになった。2005年明けには突然ばっさり切り、髪を止めないおかっぱ頭に変えた。同年夏ごろには男子と見間違えるくらい短くなり、本人がショートヘアーを好きな事がうかがえる。卓球少女には、福原と同じおかっぱにする子が急増した。2006年5月の世界卓球選手権ではやや長めの髪を真っ直ぐにしてそのまま分けずにしてのぞんだ(チームメイトからは「こけし?」と評された)。他のバージョンとしては後ろを結んで前を垂らすバージョンも少ないが時々見られる。福原は幼少より肌が白く、顔にもほくろなどが全くない。眉毛については、細くすると父が怒るのであまり細くしていない。髪も染めたことは無い。歯並びなど歯の状態はかなり綺麗な方である。ミキハウス時代はTVに出るときなどミキハウスが用意した服を着るが、子供服メーカーならではの可愛いおしゃれな服を着ていた。グランプリと契約してからは紺系のジャージが多くなり、私服は減った。これは、プロ契約上企業名の入った服を着てのマスコミ露出を考えてのことであるが、グランプリはミキハウスのように服メーカーではなく、また男子部員は松下や新井がいるが女子部員は福原だけであった。しかし、その後福原が好きなピンク色のウエアを用意するなどの配慮がとられている。 また、2005年秋からこてんこてんこのキャラクター入り服を着ることが多い(こてんこてんこはグランプリが製作しているアニメである)。 携帯電話やカバンにストラップをたくさんつけるのが好きである。

2006年10月の外国人記者クラブ会見では髪に少しウエーブの変化を加え、若干印象を変えた。
2006年10月にSMAP×SMAPに出演した際の私服は白の非常にゆったりとしたタイプの服であった。また黒のタイツをはき、ペンダントをつけていた。

語録
「メダルとれなくて、期待してくれた方にすみませんと言いたいです。」 - アテネ五輪で敗戦した直後のコメント(2004年8月)
「一度死んだからです。」 - アテネ五輪2戦目で、順調に勝てたことの理由を聞かれ
「楽しみに来た訳じゃありませんので。」 - アテネ五輪、楽しんでますか?とレポーターに訊かれて
「おにぎりです。」 - アテネでおいしかったのは?
「自己満足してきます!」 - 色紙に書いたアテネの意気込み
「オリンピックは通過点ではなく、そこで立ち止まって戦いたい。」 - アテネ出場が決まって
「ミックスゾーンで泣くのだけは嫌だった。」 - アテネ五輪の敗戦のコメントをふり返って
「爆弾発言」- 西村監督が、アテネのベンチで福原がピンチでもほとんど話しかけなかったことについて、「言ってもどうせ言う事聞かないですからねー。あれくらいがちょうどいいんですよ。」とコメントしたのを聞いて。スーパーニュースより
「実現する夢しか言わないんですよ。夢は叶えるものだから。」 - 卓球王国インタビュー(2004年9月)
「裸みたい。」「サラサラしていて、汗もすぐに乾いてくれるので、何も着ていない感じ。」 - 代表の新ユニフォームの感想を聞かれて(2005年5月)
「家のカギをしめなくても、全然大丈夫ぐらいの、町になって欲しいです。」 - 一日警察署長をした時に(2004年10月)
「変な意味じゃないですよね。」 - 安藤優子に「監督との関係はうまくいっていますか?」と聞かれ(2004年)
「全然可愛いと思ってませんが、気をつけてることは、睡眠をよくとることです。」 - イベントで子供に可愛さの秘訣を聞かれ(2005年)
「相手は夫婦だったから、相手の愛の強さに、愛は負けました。」 - パリ大会、岸川との混合でドイツのボージック夫妻に敗れた件について(2005年12月)
「なんとかならなくてもなんとかしなくちゃいけないんですよ! 」 - 強豪との対決を前にして
「それはマスコミの方が考えることですよ(笑)」- 2005年9月、アジア卓球選手権で世界ランキング300位台の選手に1セット取られた理由を聞かれて
「戦争、意味ないと思います。早く終わってほしい。(中略)イラクの選手は世界選手権に出られるのかな。」2003年3月24日朝日新聞夕刊に寄稿した「アメリカ/私と/イラク」より
「誰ですか?これ」 - 有働アナとの対談中、小さい頃のNHKインタビューで、{「夢は?」「オリンピックにでれれたらいい」「メダルは?」「…ゆったらそのままとんなきゃいけないからやだー」}という自分のやりとりを見て(2004年5月)
「今まで『愛ちゃん』と呼んでた人から急に『愛さん』とか『愛選手』って呼ばれたら「えっ誰?」って思っちゃうんで。『愛ちゃん』でいいです。」 - いつまでも、「『愛ちゃん』と呼んでいいのかな?」と聞かれ・同上インタビューより
「じゃあ、千人連れてきて下さい。総当たり戦やりましょうよって」 - 中国には福原より強い子が千人はいる、と小山ちれ選手が発言したことについて(中3の時)
「何度も好き、と言う人は本気だけど、一度だけ好きと言う人は冗談だわ・・・違います?・・・何で私こんなこと答えなくちゃいけないの」- 2005年8月、中国番組、面対面で、「本当にあなたを好きな人とそうでない人と、どうやって見分けるの?」と聞かれ
「思ったより簡単だった」「何も練習してこなかった」「卓球の方が難しい」 - アニメ「こてんこてんこ」の声収録を終えて(2005年12月)
「当たって砕けてきます!」 - 2005年世界卓球選手権の意気込みを聞かれ
「したいなあって思ってできるものじゃなくないですか?」 - おしゃれカンケイで、古舘に「恋の歌とか聞いてて恋愛したいなあ、って思うこと無い?」と聞かれ(2005年3月)
「いや、駄目じゃないですけど、(笑)元気があっていいと思います。」学校で恋愛は?とかいう話で「私のクラスの男子は柔道部とか、野球部で坊主とかなんで」と答えたのに対し古舘が「坊主は駄目なんですか?」と聞かれ(同上)
「今年の目標は、高校生に見えるようになりたいです」 - 17歳の誕生日を迎えて
「はくんじゃなかった」「ボール拾う時とか、気になりますよね」「下にもう一枚はいてますよ」 - 2006年全日本ダブルスでスコートをはいたことについて
「80パーセントはうれしくて、20パーセントはホッとした。」「(早稲田の在校生は)オーラが出ている。」-(2006年9月13日)早稲田大学スポーツ科学部の入学が決まった当日、成田空港での会見で
「小さい頃はメディアの方に追っかけまわされるのが嫌だったんですけど、最近はメディアがないと、自分の気持ちが世間の人たちに伝わらない面もあるので、今はメディアをすごくありがたいと思い感謝してます。メディアのみなさんに対しては失礼ですが、ちょっとお友達のような感覚でいます。」 - 外国特派員協会インタビューより、メディアについて(2006年10月11日)
「どっちが悪いかいいのか分からないんですけど、早く仲良くなればいいなあって。」「喧嘩したら、いつかは仲良くなるんで、たぶん大丈夫です(笑)」「私自身、中国の選手・コーチに育ててもらってここまでこれたって、感謝しているので、スポーツを通してまた、仲良くなればなあ、というのと、政治とスポーツはまた別に、違うものかなあって。」 - 中国の反日運動について(2005年4月)
「週刊誌に載る様な事はしません。」 - SMAP×SMAPでSMAP中居に大学で一人暮らしした時の事を聞かれ(2006年10月30日放送)

進学
福原の両親は他とは全くレベルの違う環境を福原に用意した。3歳から卓球を始め練習時間は毎日4〜5時間、今では7〜8時間。年に休みは3日程度。 コーチは専属の中国人を住み込みで契約している(時には元中国チャンピオンなど)。その方針は今も続いており、現在はカットマン専門のコーチ含め 2人が専属コーチで常に福原と帯同している。正月などは頻繁に中国合宿を繰り返し、中国の技術を体に染み込ませ、コミュニケーションの為中国語も身につけた。福原愛の卓球スケジュール、練習方法を決めているのは当初は卓球経験者の母親であったが、その後は父親主導になり今はマネジメントなど含め全て管理している。 福原が小4の時、突然大阪に引越しミキハウスとプロ契約を結んだ。(注・2001年4月から日本卓球協会はレジスタードプロ制度をなくした。これにより、以降は子供選手でも誰でもプロ(商業)活動が出来るようになっている。)一家はミキハウス本社のある大阪府八尾市に引越し、福原は当時できたばかりのミキハウス練習場に通うようになった。この時に、王子卓球クラブの作馬六郎に「王子サーブ」を習得し、以降このサーブは福原愛の代名詞ともなった。大阪では公立小学校に通っていた。中学は大阪の強豪である私立四天王寺中への進学を考えていたが、福原はプロ契約してる為、全中やインターハイなどに規定で出場できないという懸念があった。結局地元公立中へ入学したが、一ヶ月でスポーツの名門私立学校、青森山田中学に転校した。青森山田中は中高一貫教育を目指してその年に開校。法人は卓球専用の体育館などの施設を備えている。同校を選んだのはミキハウスJSCに所属したままプロ活動をしたいという福原サイドの意向に、理解を示したのが大きな理由である。これにより福原は多くの卓球遠征が可能になった(その後福原は「卓球界に大きな貢献をした」ということで、全中もインターハイも国体も特例で出場できるようになった)。 ミキハウスは青森JSC(ジュニアスポーツクラブ)という組織を作り、福原をその所属とした(他には青森大学の坂本竜介などがいて、混合ダブルスペアをよく組んでいる)。ミキハウス所属には平野早矢香、小西杏、藤沼亜衣などがいてその選手達と福原は仲が良い。特に小西とはダブルスで全日本3連覇した(2005年以降、代表では藤沼と組んでいる)。ミキハウスの4年契約が終わった後、ミキハウスからもオファーはあったが、福原サイドはグランプリと4年契約することに決定した(2005年4月)。北京五輪終了の年までで、その後は未定である。グランプリは福原が青森山田高校に通うことを承認、中国リーグに2年連続で参加することも支援している。

父は高校卒業後の進路として当初、大学も青森山田学園系列の青森大学を考えていたが、福原愛本人が早稲田大学スポーツ科学部強く志望し、2006年8月より書類提出、面接を経て、9月13日、早稲田大学スポーツ科学部に合格が決まった。専攻はスポーツ文化学科である。早稲田大学としては2年目の実施となる同学部のトップアスリート入学試験のAO入試を行い、福原含め6人が合格した。スポーツ科学部のキャンパスは所沢市にあり、練習場は新宿区にある。なお、早稲田実業学校高等部の斉藤佑樹選手とこの大学の同級生となる。

家族のサポート
福原には両親と兄がいるが、みな福原のマネジメントに当っている。特に父親の権限は大きく、福原の進路や練習方法、コーチの選択、大会やイベントやTV出演などを管理しているのはほとんど父親の判断による。また、今後の進路について時々マスコミにコメントを出している。TVの出演を選ぶ時は基本的に卓球に関連性があるものだけにしている。2002年頃に「千秀企画」という福原の個人事務所も作った(マスコミやイベント依頼の対応などの窓口)。ちなみに千は母、秀は兄の名から一文字ずつとっている。2006年に広東チームのオーナー権を買ったが、短パンにはそのロゴが入っていた。福原は「昔は母は鬼コーチで、父は時々来て遊ぶぐらいだった。今は自分と母はすごく仲が良いが、父は怖い存在で絶対に逆らえない」と語っている。フジの特番でも「王子サーブを何で使わないんだ!」と怒鳴り泣かしている場面が見られた。練習では手が出ることもあるという。母によれば、福原の「感情的だが、良くも悪くも気持ちの切り替えが早い」性格は父親から受け継いでいるそうである。家族は福原のメールもチェックしているらしい。 JOCの選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度については福原は2006年6月の時点でも継続して加入している。多くのトップアスリートが脱退していく中、CMなど広告収入を多く抱える福原はJOCにかなりの貢献をしている。父親は「JOCにはお世話になったのでまだ継続していきたい」と語っている。福原は試合が終わると毎日記者にコメントを出すが、これも「それはあなたの仕事」と小さい頃から母に言い聞かせてきたことによる。現在福原のコーチは中国人の湯媛媛と章篠琳(カットマン)で、いつも一緒に行動しているとの事。彼女達も父親が交渉して中国から連れてきた。今ではお姉さんのような存在である。

卓球スタイル
右利き前陣速攻。中国卓球の経験を積んでいる事から、中国スタイルの卓球である。その為中国人には手の内が読まれ苦手意識があるが、中国以外のヨーロッパ等の選手にはめっぽう強いのが特徴である。世界ランキングが日本でトップだが、国内では何故かなかなか優勝できず、全日本選手権でもベスト8が最高。福原がもっとも注目される有名な選手なために、多くの選手により、よく研究され、”福原対策”を立てられてるのがその原因と思われる。苦手日本人選手が複数存在する。ペースの速い卓球で、ラケット裏面には粒のある表ソフトラバーを貼り、ナックルなどの変化球を出せる。ちなみに、小学生の頃は日本卓球協会の規定で違う種類のラバーを貼れなかった為、両面表ソフトラバーであった。「試合中、みんなが思っている以上に何も考えていません」と話すように、あまり考えないタイプの選手らしく、それゆえに研究されると弱い一面を持ち、本人は「ビデオ研究すると、相手が強く見えるから嫌い」とあまり研究しないのも課題である。その割にラバーを貼ったりするところを見られるのを非常に嫌い、自分の問題点を言う事を避けたがる一面も持つ(相手に有益な情報が広がる為)。流れを変えるのが難しいらしく、勝つときは圧勝して勝つが、流れが悪くなるとその流れを変えれない事も多い。 王子サーブというしゃがみ込みサーブを使う。体がやわらかく低い打球点から繰り出すバックハンドは世界でもトップクラスである。福原は当初あまりかけ声を出していなかったが、中学後半ぐらいから徐々に大きなかけ声を出すようになり、アテネ五輪で「サー!」は福原の代名詞ともなった。(もっとも卓球でこのように声を出す選手は多く決して珍しいことではない。) ただ、強い相手などにはかけ声が全然出ない事もあり、その辺は課題ともいえる。「サー!」のかけ声には最大で3連続「サー!サー!サー!」もあり、「サー!ナイスボールサー!」もある。気合が入ると相手がミスしても「サー!」が出る。声が裏返る時もあり、年々闘争心が強くなっている。福原は「かけ声をかけるという事は、自分が点を入れているという事なので、いっぱい叫びたいですね」と話す。声の音程には気を使っており、「会場で他の人と同じような音を出すと意味が無いじゃないですか」ということで今の甲高い声になったらしい。

小学校時代は「ヨー!」(「よーし」の略)というかけ声を使っていたが、中学以降は思春期に入ったためにこのかけ声を使わなくなり、その代わりに中国の選手たちの影響で「サー!」を採用したことを、2006年10月30日放映のフジテレビ系列番組SMAP×SMAPで明らかにした。(たまに間違えて「ナー!」になる事があるらしい。)
小さい頃から天才少女と言われてきた理由の一つに、同世代の国内選手には絶対負けなかった事がある。中1で全日本ジュニア(高校以下)を制すとその後3連覇。どの大会でも一度も負けなかった。だが'06年8月のインターハイ、シングル決勝で同じ年齢の宇土弘恵(就実)に初めて負けを喫した(しかもストレート)。尊敬する選手は王楠。左利きに憧れている。国内ではカットマンや、粒高ラバーなどの異質攻撃選手に苦手意識があるようである。
2004年度末まで日本代表監督は西村卓二で、特に中学時代多くの熱血指導を受けてきたが、その後は近藤欽司が協会より代表監督に指名され、現在も指導している。

戦歴
1992年8月、3歳で初めてラケットを握る。
1993年9月、全日本卓球選手権大会・バンビの部(8歳以下の部)ベスト16
1994年9月、全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
1995年9月、全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
1996年9月、全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
1997年8月、東アジアホープス大会(日本代表)
1997年9月、全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝
1997年11月、全日本卓球選手権大会・カデットの部(13歳以下の部)優勝(小3)
1998年7月、大阪に転居。ミキハウスJSCに所属。
1998年8月、東アジアホープス大会(日本代表)
1998年9月、全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝
1998年11月、全日本卓球選手権大会・カデットの部(14歳以下の部)ダブルス優勝・シングルス準優勝
1998年12月、全日本卓球選手権大会・一般の部 ダブルス ベスト32(史上最年少出場)、ジュニアの部(17歳以下の部)シングルス準優勝(史上最年少出場)
1999年3月20日、レジスタードプロに登録
1999年8月、東アジアホープス大会(日本代表)シングルス ベスト8
1999年9月、全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝
1999年11月、全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)準優勝
1999年12月、全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト4、一般の部 シングルス ベスト64(史上最年少出場、最年少勝利)
2000年6月、ジャパンオープン(日本代表)シングルス ベスト64、ダブルス ベスト32 日本代表初出場(小6)
2000年9月、全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝(7連覇)
2000年11月、全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)優勝
2000年12月、全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト32 
2001年1月、第30回後藤杯選手権 女子シングルス優勝 
2001年4月、東アジアホープス大会(日本代表)団体2位、シングルス3位
2001年6月、中国オープン 決勝トーナメント進出。
世界ランク:126位
2001年9月、ジャパンオープン シングルス ベスト16、ダブルス ベスト8
世界ランク:98位
2001年12月、デンマークオープン シングルス ベスト8、ダブルス ベスト8  
世界ランク:67位
2001年12月、全日本卓球選手権 ジュニアの部優勝、 一般の部 シングルス 7位、ダブルス 3位  
2002年8月、全国中学校体育大会 女子シングルス優勝
2002年9月、ジャパンオープン ダブルス ベスト8
2002年10月、釜山アジア大会 女子団体 銅メダル
2002年12月、全日本卓球選手権 ダブルス優勝、ジュニアの部優勝
2003年2月、アジア選手権 女子ダブルス準優勝
2003年3月、日本卓球リーグ実業団連盟ドリームチャレンジカップ優勝 推薦参加
2003年5月、世界選手権 シングルス ベスト8
2003年8月、全国中学校体育大会 シングルス優勝 
2003年9月、アジアジュニア卓球選手権大会 女子団体ベスト4、ダブルス ベスト4
2003年9月、中国オープン 3回戦敗退
2003年9月、ジャパンオープン 3回戦敗退
2003年11月、ドイツオープン シングルス(アンダー21)優勝
2003年11月、スウェーデンオープン シングルス(アンダー21)優勝
2003年12月、第1回世界ジュニア選手権大会(チリ)ダブルス 銅メダル、シングルス ベスト8
2004年1月、全日本卓球選手権 女子ダブルス優勝、ジュニアの部優勝
2004年3月、世界選手権 女子団体 銅メダル
2004年4月、アジア大陸オリンピック予選 シングルス 3位(アテネオリンピック出場決定)
2004年8月、アテネオリンピック シングルス ベスト16 ※(直後の世界ランキングwr19位に、初の10位台)次項に詳述あり
2004年10月、国体優勝 少年女子団体の部、青森県代表として(埼玉)
2004年12月、世界ジュニア卓球選手権大会2004 神戸大会
女子シングルス 3位
混合ダブルス 3位
女子団体 準優勝
2005年1/11-16、全日本卓球選手権大会
女子シングルス 6回戦敗退
女子ダブルス 優勝
混合ダブルス 優勝
2005年2月、ジャパントップ12卓球大会 準優勝
2005年3/12-13、第17回女子アジアカップ シングルス 準優勝※(直後の世界ランキングwr32→wr23へ大幅アップ)
2005年3月28日、高等学校選抜卓球大会 団体戦準優勝 (青森山田高校)
2005年3月31日、ミキハウスジュニアスポーツクラブ満期終了、一時フリーになる。
2005年4月1日、中国スーパーリーグ遼寧省チーム入団(一年契約)
2005年4月11日、グランプリと4年契約を結ぶ
2005年4/30-5/6、第48回世界卓球選手権上海大会
女子シングルス 3回戦敗退
女子ダブルス ベスト8
混合ダブルス 3回戦敗退
2005年9月、アジア卓球選手権、ダブルスで銅メダル、ペアは藤沼
2005年10月、国体2連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(岡山)
2005年11月、ITTF女子ワールドカップ3位(銅メダル)中国広州 ※(直後の世界ランキングwr25→wr16へ大幅アップ)
2006年1月、全日本卓球選手権大会
女子シングルス ベスト8
女子ダブルス ベスト4
混合ダブルス 準優勝
2006年2月、ジャパントップ12卓球大会 準優勝
2006年3月5日、第19回グランプリアジアカップ シングル5位
2006年3月15日、超級リーグ広東チームへの移籍契約調印を行う
2006年4月9日、日本卓球リーグ実業団連盟 ビッグトーナメント 女子シングルス優勝(推薦参加)
2006年4/24-5/1、第48回世界卓球選手権ブレーメン大会
女子団体 3位 銅メダル
2006年6月、ITTFツアー 台湾OP ダブルス優勝 ツアーでは初の優勝、ペアは藤沼
2006年8/7-11、インターハイ
女子団体 準優勝
女子シングルス 準優勝
女子ダブルス 優勝
2006年9月、ITTFツアー ジャパンOP ダブルス銅メダル
2006年10月、国体優勝3連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(兵庫)
2007年1月、平成18年度全日本卓球選手権大会
女子シングルス ベスト16
女子ダブルス 4回戦敗退
混合ダブルス 優勝(坂本竜介ペア)
2007年2月10日、ジャパントップ12卓球大会 準優勝

アテネオリンピックでの対戦成績
アテネオリンピック女子シングルス
2回戦(8月15日) オーストラリアのミャオ・ミャオと対戦し、4-3で勝利。
3回戦(8月17日) アメリカのガオ・ジュン(世界ランク12位)と対戦し、4-0で勝利。
4回戦(8月18日) 韓国の金暻娥(世界ランク6位)と対戦し、1-4で敗退。8強ならず。
受賞
1993年 - 功労賞(日本卓球協会)
1994年 - 未来賞(ミロスポーツ大賞)
1995年 - 日本スポーツ賞(読売新聞社)、特別奨励賞(宮城県体育協会)
1996年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、感謝状(兵庫県卓球協会)、感謝状(ライオンズクラブ)
1997年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会)
1998年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会)
2003年 - 第5回王国大賞、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(卓球王国)
2004年 - 第4回日本卓球人賞
2004年2月2日 - イタリアテルニ市の親善大使に任命
2005年1月 - 夢見る女の子大賞(ロッテ主催)

主な出場イベント
2000年4月4日 - プロ野球・日本ハムの始球式をつとめる(東京ドーム)
2004年1月 - ミキハウスの毎年恒例の新年会に最後の参加をした。ゲストは星野仙一
2004年6月 - ミキハウスの五輪壮行会
2004年8月 - アテネ五輪聖火リレー最終ランナーをつとめる(新宿)
2004年10月20日 - 新宿、都庁前で一日警察署長
2005年2月 - 中国大使館を表敬訪問、卓球交流
2005年4月23日(反日感情が悪化していた時期) - 中国大使館訪問、王穀駐日大使に表敬
2005年3月 - 中越地震で被災した長岡市の南中学を慰問、卓球交流。
2005年5月14日 - 映画『KARAOKE-人生紙一重-』(グランプリ製作)の試写会にゲスト出演
2005年7月 -「中国と日本60年の歩み」写真展(東京)ジャッキー・チェンとともにイベントに呼ばれる。福原は晴れ着で登場した。
2005年9月 - 青森山田高校体育館で、幼稚園生を対象にこてんこてんこと気球イベント
2005年9月19日 - 愛・地球博の上海ウイークのイベントに出場
2005年11月20日 - スペシャルオリンピックのトーチランの伴走者を務める(青森市)
2006年3月31日 - 日中卓球交流50周年記念イベント(北京)
2006年10月11日 - 外国特派員協会の昼食に招かれインタビューに応じた。(東京都)
2006年10月12日 - 全国旅館生活衛生同業組合連合会(全旅連)のイメージキャラクターに選ばれた。(東京都)

過去のテレビ出演
スーパーニュース(フジ)年一回ぐらい生出演している。フジには幼少より愛ちゃん番の佐藤ディレクターがいる。
うたばん(TBS)卓球対決で何度か出演している。
「愛が見えた!泣き虫愛ちゃん14年の挑戦」(フジ、2003年3月2日)2時間の特別番組で、福原愛を幼少から成長を追って取り上げたドキュメント。「(練習を)やめないで〜!泣かないでやる!」といった幼少の葛藤をはじめとして、全体にスポ根系のニュアンスが強い作りである。放送時福原は中二で、この放送直後に世界選手権でベスト8となり、世間が注目した。司会は安藤優子、そして長嶋茂雄がゲストだった。視聴率は14.3%となかなかの高視聴率だった。
徹子の部屋(テレビ朝日、2003年9月15日)普段はき慣れないミニスカートで登場し、番組内で黒柳に「足がちょっと開いてますよ」と何度か指摘される場面もあった。
さんまのまんま (フジ、2004年1月)杉山愛と晴れ着での出演。
ニュース10(NHK、'04 4月頃)アテネ出場が決まっての出演。この時はダブルスも通過した、と日本人は皆誤解していた。有働由美子のインタビューを受けた。
「夢が咲いた!決戦のアテネへ 愛ちゃん15歳の出陣」(フジ、2004年8月13日)アテネ直前に流された2時間番組。司会は安藤優子とみのもんた(この直前に長嶋氏は脳こうそくで入院していた)。前番組以降の、ここ一年半の福原の卓球生活に特にスポットを当てた内容であった。また、福原は番組に出演し、みのと卓球対決も行った。他に舞の海、森末慎二、永島昭浩、八木亜希子もゲストとして出演した(スーパーニュースの歴代スポーツキャスター)。視聴率は11%前後と前回の高さには及ばなかったがそれなりの数字を出した。
報道STATION(テレビ朝日、2004年8月)アテネからの衛星中継で古館と生トークを行った。この頃はどの番組でも「サーッ!」についての質問が多かったが福原は照れて明確に答えなかった。
スーパーフライデー 愛と真実のアテネ五輪密着17日超マル秘映像全部見せちゃうぞSP(TBS、2004年9月3日)中居正広と久保純子が司会。青森の練習場から生中継され、中居からケーキをもらった。
海外のドキュメント番組に登場(2004年末)。外国人からのインタビューに答えた十数分のドキュメント番組。日本でもJSPORTSで放送された。
雨スポ(2005年1月)雨上がり決死隊が司会のスポーツバラエティ番組に登場。愛ちゃんを笑わせようというコーナーでは、福原愛の物真似をしたほっしゃんには「全部はずれ」と酷評したが、ガリットチュウの乳をあげる豚の親子のモノマネにはひきつるほど大爆笑していた。
学校へ行こう!(TBS、2005年2月)V6岡田准一とドランクドラゴンと主演の番組で「普段忙しい愛ちゃんにデート気分を味わってもらおう」という企画や、負けたら愛ちゃんをコギャルメーク、という卓球対決などがあった。
とんねるずのみなさんのおかげでした(食わず嫌いのみの特別番組、フジ、2005年2月ごろ) この日は松岡修造と福原愛がゲストとして呼ばれた。結果は引き分け。視聴率は20%を超え、同番組の放送中でも特に高視聴率を出した結果となった(目立っていたのは松岡であったが)。なお、福原の嫌いな食べ物はキウイであった。
とんねるずのスポーツ王は誰だ(2005年、2006年正月放送) 2005年は青森山田高校体育館での収録。2006年は5歳の卓球少女の平野美宇、伊藤美誠がゲスト出演した。
おしゃれカンケイ(日テレ、2005年3月13日) ちょうど同番組が終了するころの放送で、福原がメディアでミキハウスの服を着る最後の機会だった。
ザ・ワイド(日テレ 2000年5月)草野仁キャスターと対談をした。グランプリの紺ジャージで登場。
スポーツ大陸(NHKBS、2005年9月3日)超級を中心とした50分のドキュメント番組。NHKでも再放送された。
中国語会話(NHK教育、2005年12月26日・2006年1月9日)同番組の盧思が青森を訪問し、福原愛に中国語についてインタビューした。顔や身長が福原にそっくりな盧思は「私の小さい頃にそっくり」、福原も「盧思さんが歩いてくるの見て、私にそっくりと思いました。」と談笑した。
とっさの中国語(NHK教育、2007年4月〜9月。予定)福原は上記出演がきっかけでNHKの語学番組出演に関心を持つようになり、この番組に盧思が登場することもあり出演依頼を快諾した。番組では、盧思が「ネイティブ並み」と太鼓判を押す発音で、その日のフレーズを紹介する役割を担う。
アンテナ22(日テレ、2006年1月16日)一時間のドキュメント番組。昨年の超級や、学校生活に密着したドキュメント番組だった。
テレビ東京は世界卓球選手権を放送。同大会の特番も放送した。(2005年、2006年)他にはアジアカップ、アジアジュニア選手権、あいおいトヨタカップなどの放送履歴があり、アテネ以降、福原、卓球に理解がある放送局である。
SMAP×SMAP(2006年10月30日放送)のビストロスマップにゲスト出演。注文は味の付いたご飯とデザート。試食の途中でSMAPのメンバー全員と卓球も行った。香取は幼少時の福原愛のスタイルで福原と対決した。福原は番組の半分ほど登場していたが、その週の視聴率は19.9%と同番組の他週と比べても高い結果となった。

CM出演
全日本空輸(ANA)
ANAのCMで、福原が中国、瀋陽で実際に好きなものをカメラで撮ってくるという企画がありそれは1.SL編(自分で石炭も入れた)2.竹筒マッサージ、3.散髪編(自分で他人の散髪にも挑戦)、4.卓球練習場、の4つだった。
「福原愛@瀋陽」
『SL篇』
『竹筒マッサージ篇』
『体育学院篇』
『散髪篇』
企業CM
『ひまわり篇』 山本博、浜口京子、品川景子、国本綾、山田美幸、石原口綾らも出演。
LIVE/中国線就航20周年/ANA
『卓球編』 内田恭子と共演 (2007年3月 - )
三井生命
KIRIN (アクエリアス)
Yahoo!BB
グランプリ
トヨタ自動車
佐川急便
グンゼ 等多数

アテネ五輪の試合放送
アテネ五輪初戦当日、福原の試合は20時頃から始まったが、テレビ東京は競泳等を録画で放送していた。多くの卓球ファンは、ITTFが作っているネットライブスコア(点数の経過だけ)を見ながら一喜一憂していた。ところがテレビ東京は途中から急に卓球に切り替え、既に福原は2セット取られピンチの状態から始まった。30分程度放映し試合が終わらないまま番組は終了し、放送延長もなく、最初から放送していなかったので見逃した視聴者も多かった(21時頃に試合は終了)。内容はフルセットの、最後は2点差の緊迫した逆転試合だった。

同日、NHKBS、NHK総合は23時ごろから、TBSが0時ごろから録画放送を開始。その3局は他局と時間がかぶっているにもかかわらず、ノーカットで試合放送した。 次の3回戦はNHK、TBSが生放送をした(19:30-)。NHKだけで平均視聴率は20.1%、勝利した瞬間の最高視聴率は31.9%という高視聴率をマークした(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。 NHKが「卓球の愛ちゃん人気の高さには驚きました」と話したように、この数字は各局に少なからぬ衝撃を与えた。

最終試合となった3試合目、4回戦は開始が0時頃だったが、これはフジが生放送。2戦目に比べ数字の取りにくい時間帯だったが、これも高視聴率をマーク。福原が敗れた瞬間の最高視聴率は22.7%(フジ:19日0時34分)。

2004年アテネオリンピックに関するアンケート(株式会社マクロミル調べ、2004年6月2日)で「見逃せない競技・種目(複数回答)」のトップは、回答者の62%が挙げたバレーで、注目・期待する選手でトップだったのは北島康介、2位は谷亮子、3位は福原愛、4位は井上康生そして5位に大山加奈、6位に栗原恵がランクインしていた。
福原はメダルを取れなかったが、マスコミは他のメダリストとともに福原を番組に呼んでインタビューを繰り返した。

アテネ五輪で初めて福原の試合を見たという人が多く、その人たちには福原が出す「サーッ!」という声をはじめて聞くことになり、小さい頃は泣きながら卓球をやっていた少女が、あんなに元気よく声を出していることに感銘を受けた人も多かった。各局のインタビューでは、必ずサーの質問がされ「あれはサーなのかターなのかシャーなのか」という論議がしばらく続いた。報道STATIONのインタビューでは「気合いです。何て言ってるのか分からない。」とコメントした。声紋を機械にかけたところ、発音は「ター!」である事が判明した。

福原の関連書籍、商品など
いくぜ!温泉卓球(彩京、PS2用ゲームソフト、2000年)小六の福原愛が対戦相手として登場
福原愛の卓球一直線(サクセスPS2用ゲームソフト、2005年)高校生の福原愛となって戦う。
エキサイトピンポン(エポック、'06.07)子供の福原愛と、高校生の福原愛と戦える。
「福原愛物語」(少年サンデーで漫画化、作者はあおやぎ孝夫氏、2004年8月4日)
TV東京のアニメ、「こてんこてんこ」妖精アイちゃんの声優を担当(2006年1月)
卓球ラケット「福原愛」バタフライ
卓球シューズ「WAVE FLORA AI」ミズノ
卓球練習マシーン「マシンガン愛I、II」TSP
卓球のレッスンDVDバタフライより発売されている。
中国の卓球選手ばかりが歌うラップ曲2曲に特別参加している。(2005年、2006年)
2006年度福原愛カレンダーがANAより作られる。(2005年12月)
2頭身フィギュア(ロッテのガムの懸賞の商品になった。2006年)
福原を取り上げた本
福原愛写真集「LOVE ALL」(卓球王国、2005年3月)卓球写真集という趣が強い。
「愛は天才じゃない―母が語る福原家の子育てって? 」 生島淳 (2005年1月) 三起商行(ミキハウス) 母のインタビュー本。
「愛ちゃんのあ。」リイド社 福原の母の著(1997年10月)
「スポーツのニューヒロイン〈2〉福原愛物語 」汐文社 本郷 陽二著(2005年11月) ¥ 1,575  子供向け
卓球王国(1996年 - )創刊号以来これまで、何度も表紙を飾り、インタビューも数多く取り上げられた。月刊福原愛という1Pの福原愛のアルバム新聞のような記事があり、名称は何度か変わったが、小学生の頃から続いている企画である。
卓球レポート(1994年 - )これも福原愛の記事や表紙は載るが、卓球王国に比べると幾分少ない。
AERA(小学館、2003年5月12日)表紙を飾った。
小学一年生(小学館、1995年4月 - 1996年3月)表紙を飾った。
中国の卓球雑誌「世界卓球」(2005年8月)で表紙や本編などで大きく取り上げられた。
公式ファンサイト 携帯の公式ファンサイト、パソコンの公式ファンサイト、所属のグランプリによる公式福原ファンサイトが存在するが(昔はミキハウスの福原ファンサイトもあった)、いずれも過疎状態が長い。これは福原サイドが多忙でなかなかメッセージを出せないことが大きな要因もある。他の人気スポーツ選手のブログHPのような盛り上がりは見せていない。

その他エピソード
血液型はB型。お菓子が大好き。好きな飲み物はクリームソーダ
愛犬は黒のミニチュアダックスフント。名前はチャッピー。2006年10月に購入。
口ぐせは「すごい」で、会見では頻繁に聞かれる。「やばい」「超」なども普段はよく使う。
携帯メールが好きで多用している。アテネ前の話では一日100件、多い時で150件していた。しかし中国に行くと日本との交信が難しくなり、最近は少なくなっていると話している。
NHK、2004年正月の番組で足型を取ったところ偏平足であった(他にイチローも)。フジTVでは安藤アナが多くの練習で足の裏にまで筋肉がついた為に扁平になった、と説明したことがある。足は24cmと大きいので、本人はもっと身長が伸びると思っていたが中3で成長は止まってしまった。現在公称155cm
時期により体重の増減が大きい(練習量が多く、その分食べる為)大きな大会が始まると緊張、疲れから食が進まなくなり痩せてしまう為、大会前は多少体重を増やして望むことが多い。ベストは48キロ。母は小さい頃食が細いのを心配していたが、今はその必要はないようである。
アテネ五輪では家族が大量のおにぎりを会場に持参したが、入り口の持ち物チェックで「爆弾ではないか」と係員に一時引き止められた。
「18歳になったらすぐ車の免許をとりたい」「20歳になったら自由なので早くなりたい」と話している。
子供好きだが、小、中学生ぐらいの大きな子は苦手と話している。
部屋に置いてあった漫画は「名探偵コナン」「ドラえもん」「こち亀」であった。(アンテナ22より)
サインには「福原愛」の他に「AI」という簡易バージョンがある(超級のニュースで確認)
2004年1月のクロアチアオープン中に39度の高熱になり、スポーツニッポン新聞がマスク姿の福原を一面に載せた。
2006年4月26日に世界卓球選手権(テレビ東京)の放送時間が30分延長され、同日の番組が30分ずれたが、その為番組の録画に失敗したということで抗議文と人骨のようなものが局に送りつけられた。番組はTV東京アニメ「いぬかみっ!」とされている。差出人は分かっていない。同日はシンガポールとの一戦で、福原愛が強豪リ・ジャウエイを下し、予選リーグ通過を決めた試合だった。
大阪は2008年度五輪開催地として正式に立候補し、さまざまな招致活動を行ったが(大阪オリンピック構想)福原愛を誘致のシンボルの一つとした。(福原が大阪に引っ越した一つの要因ともされる。)大阪は大阪五輪の盛り上げの一環として、2001年に世界卓球選手権シングル、団体(同時開催)を大阪に誘致し、福原愛もエキシビジョンとして桂三枝とオープニングマッチを行なうなどして、盛り上げた。
座右の銘は「よく寝て、よく食べ、よく笑う」だったが、2006年に兄から変更を促され「一意専心」に変わった。
GP・GATE制作のアニメ「こてんこてんこ」で再びアイちゃんが出てきた2006年5月4日、7月6日、7月13日、の回の声優はかないみかになっていた。
幼少時、「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」に出演した時、明石家さんまとの試合で敗北し、番組中に泣いたことがある。福原の主張によればこれはさんまがルール違反のサーブをした為で、それを今でも認めないさんまとは対立関係が続いている。アテネ五輪直後、現地で福原をゲストに呼んだ時は「日テレさん、福原愛を殴ってもいいですか?」と問題発言し、司会の柴田倫世アナらを慌てさせた。帰国後、別のアテネ特集番組で福原が台風で番組にこれなかった時、司会のさんまは「よかった〜」「あの子、私に対してなんか反抗期なんですよ〜」と胸を撫で下ろしていた。なお、福原は好きなTV番組によく「からくりTV」をあげる。
幼少時に、デーモン小暮との対決で山なりの叩きつけサーブを打たれ、福原はボールに届かず悔しくて泣いた事がある。
これまでマスコミに福原愛2世と呼ばれた選手は石川佳純と平野美宇の二人である。
卓球以外のスポーツは苦手らしく、高校では体育は好きな教科でなくなったとの事。小さい頃は水泳教室にも通っていて、親は卓球と水泳のどちらに専念させるか考えていた時期があった。ランニングが苦手らしく、自分がリレーに入るといつもチームがビリになるらしいが、2005年以降はランニングなども強化し、筋力をつけスピード、パワーのアップを図っている。
将来なりたい職業や、好きな異性のタイプはその時々でさまざま変わるようで気分屋な面もあり、メディアの方が振り回されることもある。
スコートをたまにはくことがあり、2006年1月の全日本選手権ダブルスで小西とともにスコートをはいた。
2004年10月、埼玉県彩の国まごころ国体では、会場の春日部ウイングハット(客席3500人)に連日5000人もの客がつめかけ、国体初の入場規制がされることもあった。
秋田県湯沢市の稲住温泉敷地内に卓球道場が10月26日に完成。移築してあった旧秋ノ宮村役場(白井晟一設計の建造物)を改装した。
試合の時に発するかけ声は、小学生の時は友達をまねて「ヨー」(「よーし」の意味)と言っていたが、中学生からは、中国人が試合で「サー」と言っていたのをまねて使うようになった。(2006年10月30日放送「SMAP×SMAP」より)
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